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ブラック企業 体験談

【会社辞めたいエピソード22】富山のアルミサッシ業界で20年以上勤務!今もブラック中小で働き続ける状況を書きなぐってみた

富山在住、46歳、男性、仮名:アキオです。
私がかつて体験したブラック業界の話を書かせて頂きます。

新卒で就職をした頃、後にバブル崩壊と言われる最初の就職氷河期に突入した頃でした。

状況を簡単に説明すると高校3年生の頃は超売り手市場で高卒でも有名企業からご褒美を頂いて入社出来る様な環境でしたが専門学校2年生となった頃、世の中は180度変わっていました。

そんな中、専門学校の中でも成績が良かった私ですが、すっかり態度が変わってしまった採用担当との面接の嫌気から就職先が決められず、結局身内のコネに頼る形で小さなアルミサッシ加工会社に就職することになりました。どの企業も新卒は採用しなくなっている状況なのに是非来て欲しいとの事、私のブラック企業ライフの始まりでした。

周りは高卒、私一人が専門卒として入社後の教育を受けている最中の事でした。何やらドアの外で揉めている様子の会話が聞こえてきます。軽い押し問答がドアガラス越しに見えた後、“何でも経験!”と大きな声での発言が有った直後、勢い良くドアが開き私だけ連れ出されました。そのまま工場まで連れて行かれ、“ハイ!アキオ君はここ管理して!”と命じられました。

それから1か月程の間、言葉が通じないブラジリアンと日本人なのに言葉を全く発しない新入社員の二人を使いラインの一部の管理を任されました。新入社員なのに任されるのは有難い事、とは思う暇もなく話してくれない日本人と話すのに通じないブラジリアンがスムーズに作業を行える様に準備する為、家から距離が有るとはいえ、早朝5時からの出勤が始まります。
言葉が通じないのに3人の中で唯一作業の全容を把握しているブラジリアンと言葉も発しないばかりか作業も激遅の新入社員との作業進捗の調整で疲れ切った私はミスを連発。最悪の評価のまま正規の配属先に配属となりました。ブラック企業ライフは次のステージへと進んで行きます。

配属された部署は上司の男性3人とずらりと並ぶ女性陣で構成された部署でした。
新入社員だった私の事をちょっと年上からかなり年上のお姉さん達が凄く良くしてくれる為、最高の職場かと思ったのも束の間、上司の女性陣への粋な計らいで各自が定時前から順番待ちで行う端末の入力作業を全て私が行う事に成りました。

女性陣は全員既婚者で家事が有る為、大喜びで提案を受け入れ、定時になると帰宅前に私の机にA3の書類の束を交互に十字に重ねて帰り始めます。私はそれを“十字架”と心の中で命名していました。自分のメイン業務も既に持っていた為、入力が行える様に成るのが21:00辺りからでした。そこからひたすら2万件程の8桁の英数字を1文字も間違う事無く入力完了しないと帰る事が許されない状況となってしまいました。ここまで入社2か月位です。

上司はかなり優秀で真面目で見た目は韓ドラブームの火付け役のアノドラマの主人公をちょっと細くした感じです。現場の年配の女性陣達のアイドルだったのですが、当時は理由が分からず、後の韓ドラブームが始まった時、当時のモテ上司のモテ理由が理解できました。そんな上司が夜中になると下ネタを発しながらも最後にはアキオ君、今日も今日中に帰れなかったね~などと言われるのも聞き流し、無心で品番入力をしていました。早く正確に入力しないと帰れない、いつの間にか必要キーはブラインドで打てる様になり、今でも当時のキーはブラインドタッチ可能です。

現場ラインの管理を卒業していた私は朝がちょっと遅くなり、5:30に出勤から帰宅は1:00から2:00の間が当たり前と成っていました。朝5:30出勤という事は5:00には起床しないといけません。帰宅は1:00から2:00です・・自宅滞在時間は4時間程度です。有り得ません。

当時は親と同居でしたが、深夜に帰る私には夕食も残されておらず、お風呂も既に冷水状態です。私が睡眠時間を稼ぐ為に行った行為は、帰宅と同時にカップ麺のお湯を注ぐ直前まで準備し、冷水のまま湯沸かししながら入浴します。

上がる頃にやっと湯船の温度も適温になるのですが睡眠時間確保の為、温まるまで待てません。北陸なので冬の間は本気で辛かったです。専門を卒業する頃告白し仲良くなった女の子とも連絡出来ず自然消滅、当時はコンビニも少なく土日はほぼ寝込んでしまう為、毎月150時間余りの残業代が有っても使う事も無く、TVも見る事が出来なかったのでその会社で働いている間の世の中の出来事の記憶が殆ど有りません。

ただ、土曜の夜中に寝込んで日曜夕方、サザエさんが始まる頃に目が覚めていたので今でもサザエさんが始まると翌日への恐怖からドキドキしてしまうので成るべく見ない様にしています。
その様な生活が続く中、出勤時から定時まではお姉さん達と楽しく働いていたかと言えばそんな幸せは私には許されませんでした。

私には午後イチからの上層部会議用の資料を用意し、コピーして各人の机の上に並べておく業務も有りました。上層部と言っても現場のおじさんリーダー達の会議ですが、そんな会議でも社長と専務も出席する為、それなりにちゃんとした資料でかつ、配置も綺麗に並べておかないといけなかったのですが、メイン業務が特殊サイズ品等の出荷管理で、製造から梱包が間に合わない場合は30秒遅れてもトラックに積んで貰えなかったので毎日の様に自分の車で倉庫まで運んでいましたので、なかなか思う様に準備できないでいる時、モテ上司から提案が有りました。マイク君、お昼食べなかったら時間が取れるからその間に資料を用意しちゃえば良いじゃない?との事。言われたらやるしかありません。

必死にコピーした資料を束ねて会議室へと走る中、モテ上司は当然、昼食&休憩ですがイヤミな上司では無かったのでナチュラルに残酷な提案が出来る体質だったのかも知れません。
そうして私は、現在に至るまで平日はお昼ご飯を食べなくても大丈夫な体に進化していきました。
当時は週休二日制では無く、土曜休みの休日が月に一度有るか無いかでしたので、年間休日は96日辺りだったと記憶しています。

今から思えば、新人教育の最中に連れ出されたので、会社の規則もろくに知りませんでした。有給なんて説明も受けていないのですから、そもそも有給という存在すら考えもしないまま働き続けていましたし、残業申請も存在すら知らずに当時は帰って良いよと言われるまで働き続けました。

たまの土曜休暇の日もよく休日出勤を依頼されて、そんな場合は大抵事務仕事ではなく、現場でライン作業に従事させられました。休日出勤の日は午後イチからの会議が無かったことを良いことに積み上げられた段ボールの山の間に隠れて休憩時間をフルに睡眠に充てていました。疲弊し切って起きられずに気が付いたら3時になっていた時も有って、言い訳を考えるのに焦りまくった事も有りました。

事務仕事の要領はそんなに良くなかった私ですが、何故か現場での評価はすこぶる良好でしたので、各課の課長が日替わりでモテ上司の元に私をレンタルしに来る日が増えてきました。小さい会社とは言え、工場の作業員が200名程居れば毎日の様に何処かのラインで欠勤者が出てきますので毎日何処かのラインで慣れない作業を慣れている作業者に合わせないといけない状況が日課となっていきました。

工場のライン作業を手伝った日の残業は止めて下さいとモテ上司に懇願しても軽くあしらわれ、定時間の8時間はライン作業、定時後からの8時間は自分の仕事と、何故か1日で二人分の労働が当たり前になって来る中、この状態のまま40年働かないといけないのか・・と考えたことを覚えています。

他にもまだまだ特殊な人達と苦しい出来事は有ったのですが、私は何故かその会社の人達は嫌いでは有りませんでした。バカだったのか、純粋だったのか、残酷な仕打ちの中にも笑いながら会話する事も有ったりしたので、恨んだ事は在りません。

ただ、同じ事を今頼まれるとどんな好条件でも絶対に断りますし、今も辛い事が有っても当時を思い出すとまだまだ大丈夫と思う自分が居るのです。