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ブラック企業 体験談

【会社辞めたいエピソード35】私が体験したブラック診療所

関西在住、39歳、女性、ニックネーム:豚に真珠

私が体験したHERMESのバーキンにより閉院したブラック診療所についてお話ししたいと思います。
当時、私は20歳でした。
ある診療所に院内薬局の責任者として採用されました。
お世辞にも良い給料とは言えませんが、景気に左右されることはないので両親や祖父母も私の就職をとても喜んでくれました。
しかし、この考えが甘いことを私は思いしらされるのです。

出勤初日。まず事務長から業務時間の申告ついての説明がありました。

1. 自分のシフトを週40時間で組むこと
2. 平日の8時間勤務以降は時間外勤務として時間を計算すること
3. 土曜、日曜に出勤した場合は、全て時間外勤務として計算すること
4. 時間外勤務手当の支払いはないので、休みを取り超過分の時間を消化し調整すること

当時の私は社会経験が浅いこともあり、事務長から「夜診はパートさんに任せれば大丈夫だから時間調整の心配はない」と言われたので、その言葉をそのまま信じました。
いまの時代であれば、この事務長の勤務条件は通用しないでしょう。
事務長の説明が終わると、次は院長のもとへ挨拶に向かいました。
すると院長は他の従業員に聞こえる声で最初に私にこう言ったのです。
「本来、業務が終わったら帰る前に私のもとへ来て、帰っても良いかどうか確認してから帰るべきだ。」
このように言われたものですから、他のスタッフがどうしているか分かりませんが、私は挨拶せずに帰ることはできませんでした。この日から毎日、業務が終了すると院長に帰っても良いか許可を得てから帰るようになったのです。
このルールはなかなか面倒なものでした。
院長が診察中の時は、まず院長のアシスタントにご挨拶したい旨を伝え、診察室のすぐ側で待ちます。
するとアシスタントが診察の流れやタイミングを見計らって院長にお伺いを立ててくれ、私が院長に帰宅の許可を得るとやっと帰れるのです。
院長が診察時間外の時はさらに大変でした。
診療所は6階まであるのですがエレベーターの使用は禁止されていました。
私は階段で各階まで上がり、スタッフを見かけては院長がどこにいるかを尋ね、探し回るのです。
院長はエレベーターを使用するので行き違いになることも度々あり、一苦労でした。
帰宅前の挨拶ルールは私だけに適用されていたのですが、こんな苦労は可愛いものです。

この診療所にはカースト制度がありました。
まずトップに受付のスタッフがおり貫禄のある中年女性がボスとして取り仕切っています。2番目に看護師。そして1番底辺は私が所属する薬局でした。
もちろん職員会議も受付のボス女性が取り仕切ります。
私は自分が底辺にいることは気にしませんでしたが、そんなことよりも困った問題がありました。
薬局所属のパート1名を、なぜか受付と共有するのです。
そのパートさんからのシフト申請をもとに私は薬局勤務として毎回シフトに組み込むのですが、受付が忙しい日はそのパート女性を受付業務に連れていかれてしまうのです。
ですから、夜診の時は人員が減る可能性も考えて私は帰らず待機せねばなりませんでした。
時間調整が難しい中、あまりにも超過時間が目立つと受付のボス女性から注意されるので、仕方なくタイムカードを押さずに勤務するようになりました。

さらに私の頭を悩ませたのは薬の在庫管理です。
私は最低限の在庫を置くことしか許されていなかったのです。
そのため薬局なのに薬が足らなくなることがよくありました。
そんな時は隣にある院外薬局に頭を下げ、薬をお借りするのです。
しかし、前任者からの引き継ぎで院長に内緒で借りるよう言われていました。
なぜなら、院外薬局を併設しているにもかかわらず、診療所が薬を院内処方しているのには理由があったからです。
当初この診療所は院内で薬を処方していたのですが、院長の考えで院内薬局を閉鎖することになったそうです。
そして診療所のすぐ隣に院外薬局がオープンしました。
しかし、院外薬局がオープンしてすぐに院長の気分が変わり、その院外薬局との契約を打ち切り、勝手に院内薬局へと戻したのです。
ですから、私が隣の院外薬局にお願いなどできる立場ではないのですが、双方のスタッフの関係が良かったこともあり、私の苦しい立場を理解してくださり薬を借りることができました。
でも借りたい薬がいつも隣の院外薬局で取り扱っているとは限りません。
このように薬がすぐに準備できない場合や、診察の混雑により患者様を長時間お待たせする場合は、院長の方針で患者様のご自宅に薬を配達しなければなりませんでした。
配達するときは私個人の車を使用するのですが、ガソリン代が支給されることはありませんでした。
また、患者様のご自宅に伺う前や家の場所が分からないときはご本人に連絡するのですが、この連絡にも私の私用携帯を使わないといけなかったのです。
このように薬が足らなくなることは度々あり、私がいない夜診や休みの日に薬が不足すると、パートさんから不満がでることになりました。

私はストレスを感じながらも、仕方がないと思い我慢し勤務を続けていました。
なぜなら、勤務年数が長いあるパートさんからこのように言われたからです。
以前、院長と揉めて辞めたスタッフがいたこと。そのスタッフが辞めた後、院長が近隣の医院にそのスタッフを雇わないように手を回したこと。そのせいでそのスタッフは働くことができなくなったこと。だから決して院長と揉めないように気をつけなさいと。

私は通常の業務以外に月に一度、月末の夜診後に薬の棚卸しを院長と行いました。
そして、投薬の売上げと薬の仕入れにかかった金額の収支を確認します。
封を開けていない薬を院長が見つけると、すぐに返品するよう言うのです。
私はすぐにこの診療所が自転車操業であることに気づきました。
ですから、月末には未開封の薬をいったん医薬品の卸業者に返品し、そして1日付の納品書ですぐに薬を持ってきてもらうことを繰り返しました。

しかし、この頃にはかなり診療所の経営状態が悪く取引先への支払いが滞っていたようです。
卸業者の担当者が上司とともに院長の自宅に話し合うために訪れた時のこと。
通されたリビングには壁一面にHERMESのバーキンが置かれていたそうです。
担当者さんは「このバーキンを売って薬代を払ってくれたらいいのに」と思ったと私に話されました。
また担当者が支払いを催促しても、院長夫人が同席し聞く耳をもたず勝手なことばかり言うので話し合いにならず困っておられました。
院長は夫人のいいなりで何も意見することができず、だまって下を向いているそうです。
このような状態でしたので、担当者さんからの私に対する風当たりもきつくなり、私は院長と卸業者との板挟みとなりました。

夫人はエゴの塊のような女性でした。
自分が気に入らないスタッフがいると、人事に口を出しスタッフが働けないようにします。
また、この夫人は院長の当時の奥様から奪略婚し院長夫人の座を手に入れたのですが、院長の前の奥様と暮らす幼い息子さんが診察に訪れたとき、院長に診察させないよう手を打ったのです。
その時は別の先生が代わりにその息子さんの診察にあたりました。
その一件以来、診療所のすぐ近くに暮らす息子さんですが、具合が悪くなっても診察に訪れことはなくなったのです。

私が働き始めて数ヶ月たったある日のこと、院長が姿を消し夜診の時間帯になっても現れませんでした。
スタッフが院長の携帯電話にかけるのですが繋がりません。
急遽、診察してくださる医師を手配しなんとか夜診を開始しました。
数時間後、警察から連絡が入りました。
警察が発見したとき、院長は大きな木の前で仰向けに倒れ近くにはロープが落ちていたそうです。
たぶん自殺しようとしたのでしょう。
この時、数年前に一度お金を取り立てにきた強面の人たちで待合室がいっぱいになり、急遽休診にしたと言うことを知りました。

院長の自殺未遂の一件以来、院長夫人が毎日診療所を訪れるようになりました。
院長は婦人を同伴し、まず受付ではなく薬局にいる私に婦人を紹介し挨拶させたのです。
前任者の時は院長と薬局の折り合いが悪く、薬局の立ち位置は低かったのですが、私が働くようになってから院長は私を気に入り薬局は一目置かれるようになりました。
しかしこれが災いし、私は受付からやっかまれるようになったのです。
カーストのトップに君臨する受付ボスを差し置いて、院長が先に私のもとを訪れたからです。

この頃、卸業者との板挟み、受付からのやっかみ、そして薬局パートからの不平不満と全て私が背負うことに疲れていました。
また、どれほど診療所が存続するために頑張っても薬代は支払われることなく院長夫人が散財するのですから。

私は今まで感じたことのない胃痛が続くので、胃カメラの検査を受けました。
結果は胃潰瘍でした。
私の長所は精神的な強さだったのですが、自分が胃潰瘍になったことにびっくりし、この職場で働くのは限界だと感じました。
院長は私に退職しないで欲しいと懇願しましたが、私の意思は堅く最後は院長も納得してくれ揉めることはありませんでした。

最後に薬屋さんに聞いた話ですが、前任者もその前の方も半年以上続かず辞めていったそうです。
当時、私は20歳だったのですが「あなたの若さでこの診療所で半年続いたのだから、どこで勤めても大丈夫だよ」と言ってくれました。

退職後、私は同じ県内にある医療関係の会社に勤めました。
私が以前勤めていた診療所は、次に働いた医療関係の会社でも支払いを滞納していたのです。そしてまもなく、診療所が閉院したことを知りました。

あれから20年。その診療所の前を通るたびに当時のことを思い出します。
とても辛い日々でしたが、学ぶこともたくさんありました。
この経験を自分の糧にしていければと思います。